Twitter / @grinder: “「まぁ」を多用する人は「他人は他人、自分は自分」と …
まぁそうだな
(via raurublock)
うん、まぁ、そうかな。
(via pdl2h)まぁ、ね
(via scsa)(via omoro)
Twitter / @grinder: “「まぁ」を多用する人は「他人は他人、自分は自分」と …
まぁそうだな
(via raurublock)
うん、まぁ、そうかな。
(via pdl2h)まぁ、ね
(via scsa)(via omoro)
心・技・体ともに絶好調の時は、これらの天使は、
人には見えないようだ。
逆に、絶望的な気分におちている時には、
この天使が一日に一人だけさしつかわされていることに、
よく気づく。
こんな事がないだろうか。
暗い気持ちになって、冗談でも”今自殺したら”
などと考えている時に、
とんでもない友人から電話がかかってくる。
あるいは、ふと開いた画集かなにかの一葉によって
救われるような事が。
それはその日の天使なのである。
中島らも『その日の天使』から一部抜粋
(via atosakav) (via eternityscape)
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(via choccoto) (via choccoto) (via chord00) (via a2onaka) (via usaginobike)
(via neutral-color-spiral) (via shantihtown) (via shashamin)64:
以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/03(土) 19:47:10.49 ID:0ponfr0F0
宅間事件のすぐ後に、池田小学校にある内容の電話が
殺到したのをご存知だろうか。
その内容は、以下のようなものである。
「子供が7人殺されたんですよね?それなら、定員分補充
される筈ですよね!?うちの子供は入れられないんですか?」
国立である池田小学校には、定員がある。その定員が減ったから、
我が子を入れられないか、というものである。
この話を聞いた時、事件の一報を聞いたときよりも寒気が走った。
kenzee「そこでそろそろ驚愕の結論にいくわけだが、宇野さんの本に話を戻すが宇野さんのサブカルチャー論とはこういうものだ。もはや、圧倒的な天才がシーンを引っ張るという時代は終わった。山口百恵や松田聖子のような天才がアイドルを代表する時代ではなくなった。同様にたけしや松本のような圧倒的な影響力がお笑いを代表する時代ではなくなった。ではどうなったか。宇野さんは「ゲーム」がシーンを動かしているのだという。たとえばAKB48のメンバーは一人一人は個性的な天才とは言い難い。むしろ十人並というべきだろう。しかし、ひとたびAKBというゲーム(それも総選挙などのガチ度の高い)に参加するとどこにでもいる普通の女の子が個を発揮せざるをえない状況となる。そしてネットを通じてそれに対する非難や賞賛がかなりのスピードで可視化される。お笑いでいえば「アメトーーーーク」のような「場」でどうふるまうか。音楽においても宇多田ヒカルのような天才がシーンを引っ張る状況ではすでになく、ボーカロイドのシーンのように「場」に匿名の作家が出入りし、評価を受ける状況がある。同じような話を「文科系のためのヒップホップ入門」(長谷川町蔵・大和田俊之・いりぐちアルテス)のなかで述べている。ロックとヒップホップの違い、という議論がよく起こるが、ロックのシーンとは演者のパーソナリティーが重要視されるもので基本的な表現の回路が「内省」にあるのだという。それは西洋の文化史をたどれば宗教儀礼上の「告白」に遡れるはずだが、内面の表象、というロック信仰はいまだ根強い。だが、ヒップホップ文化には初めから「内から湧き出る」という考えがない、大量のレコードコレクションの中から編集、つまり東浩紀風に言うなら「データベースにアクセスして」創作するのが前提の文化である。
大和田「(ロックの)オリジナル信仰と「天才」を必要とする傾向はセットであると。たしかに相対的にみるとヒップホップって「天才」と呼ばれるミュージシャンが少ないというか、ファンはヒップホップという「場=シーン」(筆者注・宇野さんのいう「ゲーム」もこれに該当するだろう)に注目している。ロックの場合は「俺はボブ・ディランしか聴かない」というようなファンも多いですよね」
長谷川「「俺はKRSワンしか聴かない」なんて言っているヒップホップ・ファンはいません。いたら格好いいけど(笑)」(文科系のためのヒップホップ入門)
kenzee「確かに自分を振り返ってもヒップホップってコンピから入った。とにかくヒップホップ系のコンピのCDって500円ぐらいで投げ売りされているのでそういうのでヒップホップの耳を作っていった、という記憶がある。あるいはミックステープ、ミックスCD、そういうので「場」全体の空気感を知るのが楽しかったという記憶がある」
長谷川「文章に喩えるなら、ロックは単行本で刊行される純文学で、ヒップホップはTwitterのつぶやきなんですよ。前者は個人の著作物だけど後者はまず場があってその上で表現がある。受け手は個々の表現よりもシーンという名のタイムライン上のやりとりを楽しんでいる。表現する側も、自己表現したいというよりは「セックス」や「ドラッグ」ってハッシュタグに対して気の利いたことを言ってフォロワーを増やすことがモチベーションになっているわけです」(前掲書)
kenzee「さらにこの本では「ヒップホップは少年ジャンプであり、プロレスであり、お笑いである、という。確かに日本のお笑いのシーンとヒップホップ文化はよく似ている。まず、日本で金やセックスをあけすけに語って人気があるのはお笑いだけである。そういう意味では日本のヒップホップよりお笑いのほうが本場に近いといえる。
長谷川「彼らは女好きを吹聴していますけど、本当に愛しているのは自分が属する芸人仲間の集団で、すごいホモソーシャルなんですよ」
大和田「たけし軍団や松本軍団ってよくいわれますけど、あれってクルーですよね」
長谷川「いわゆる良識派からは眉をひそめられる一方で、売れているヤツはそれなりに頭がいいっていう了解が世間的に存在する」(前掲書)
kenzee「ボク、このラーメン特集見て真っ先に思ったのは登場する店員さんのなかに女性がいないんですよ。うどんのほうは夫婦とかいるのに。つまり、ホモソーシャル的なのです。もちろんバイトのなかには女性店員もいるかもしれないが、のれんわけされた者はいないのではないか。そう考えると家系の「家」とはヒップホップでいう「クルー」あるいはたけし軍団、ダウンタウンファミリーにおける「軍団」「後輩連中」に極めて相似形に思えるのだ。地方からでてきた、文化資本や社会関係資本を持たぬ若者たちがファミリーを結成する、そして「場」「ゲーム」を通して社会に繋がっていく。彼らの存在が急にラッパーにように感じられるではないですか。つまり「家系」とは師匠feat.弟子、弟子…というポッセカットなのです。または師匠の冠番組なんですな」